2013年9月30日月曜日

【映画評】「ヤング≒アダルト」(「あまちゃん」からみる都会と田舎論)



映画史に残りそうな痛すぎる一人相撲、そして久々に観ながら全力で身悶えた映画でした。

あらすじ


職業若者向け小説家(ゴーストライター)で、バツイチという仕事も恋愛も上手くいかない、都会住まいの37歳アラフォー女子が、地元の元カレから子供ができたメールを受け取って、ヨリを戻そうと地元に帰り、ドタバタ騒動を繰り広げるというもの。監督はアカデミー賞脚本賞に輝いた『JUNO ジュノ』の監督・脚本コンビ、ジェイソン・ライトマン&ディアブロ・コディ。


シャーリーズ・セロン演じるメイビスの行動に、『馬鹿女過ぎる!』『もう勘弁してくれ!』と憤慨に近い感情を抱いていたが、見終えた後、この行動はわからなくもなく、むしろ応援したくなる自身に驚いた。

実際に幸せな家庭を築いている元カレの生活をぶち壊しにかかるメイビスはKUSO女に違いないのだが、それでも決してそれは彼女だけの問題ではなく、田舎側の都会に対する軽蔑の意識も潜在しているのだ。

メイビスは元カレに対して、運命の人と思い込むものの、地元の価値観を持ち合わせている元カレに違和感を感じている様子が描かれる。例えば、再開の場がなんとも言えないシュリンプレストランだったり、またマットをゲイだと言い切る場面など。それでも、彼女は違和感を振りきって妄想に没入する。そのため、そのズレはもはや修復不可能な状況となり、最後の壮絶な一人相撲へと繋がる。

太っちょオタクのマットは、田舎を軽蔑するという点においてのみメイビスと共通点を持つ。だからメイビスは彼には素直になれるのだ。だからこそ、マットの今後が物凄く心配になる。何も誇れるものがなかった彼に、誇れることができてしまったので。しかもそれは地元ではもはやタブー化されてしまっていることなのだから。

この映画には過去の自分を美化してしまう構図と、大都会と田舎の価値観がぶつかり合う構図が描かれる。後者は”あまちゃん”にもある構図だ。あまちゃんの場合は、メイビスは小泉今日子演じる天野春子だろう。過去に地元でチヤホヤされ、田舎の価値観が嫌になり、アイドルになるため東京に行き、そこで自身の夢を挫折したまま過ごす。春子の場合はその後、アキの行動を通して、軽蔑していた田舎の嫌な部分も納得し、自分の中で過去の自分に対して”禊”を行う。

この映画ではメイビスは果たして”禊”を行うのか。

(以後、完全にネタバレ)

見方によっては何も変わっていないともとれる。変化があるとすれば、彼女は田舎に対する軽蔑視を鋼鉄化したのだ。天野春子が過去とよりを戻したのであれば、メイビスは完全に過去と分かちを立った。彼女はその選択をしたのだ。断固たる決意な元、彼女が描く都会での幸せをつかむかもしれない。アル中が悪化するかもしれない。でもいいんじゃない!と言いたくなった。そのまま行ってしまえ!!と背中を押したくなってしまったのだ。

個人的に地元にずっといる人達に、それも幸せのひとつだけど、どうせならいろんな場所で、いろんな人と出会ったほうが愉しいんじゃない、的な価値観がないわけではない。余計なお世話だバカヤロウ!どこから見てんだコノヤロウ!とか言われそうだけど、そういう気持ちは正直ある。いつかは地元に、とも思うけど、今戻りたいかと言われると、全く思わない。だからこそ、メイビスの気持ちにちょっと寄ってしまったのかも。人によって真逆の場合もあるだろう。ずっと都会育ちの人にはわからないかもしれないし。

それにしても元カレのパトリック・ウィルソンは『ウォッチメン』と言い、ちょっと残念な2枚目を描かせたら抜群ですな。マットの妹の微妙なブサイク加減も抜群。『同級生はしきりにカワイイと言っていたが。)

この映画をリアルアラフォーの人達が観た場合、どのような反応をするのかは非常に興味深いので、観た方いましたらどんな感じか教えて頂ければと。なんなら飲んで語りましょう。

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2013年9月29日日曜日

【書評】筆蝕の構造―書くことの現象学




現代の言語学の多くは「音声言語(パロル)」と「文字言語(エクリチュール)」という言葉の媒体する記号の差に違いを置く。この差は記号によるのではなく、人間の営みにおける表出・表現行為にしか違いはないというのが本著の趣旨である。言葉には「話された言葉」と「書かれた言葉」しか存在せず、人間が意識を表出する手段と行動に焦点を当てると芸術の創造的営為は大きく「はなす」「かく」「つむ」の3つに分類される。

「はなす」=人間が身体をもちいて意識をはなす
 放す・離す…舞踏・舞踊・演劇スポーツ/話す…話芸・音楽

「かく」 = 道具を手にして対象をマイナスαに変形する
掻く…農耕・エッチング / 欠く…彫刻・版画 / 画く・描く…絵画 /書く…文学

「つむ・くむ」=対象をプラスαに変形する
積む…建築、陶芸 / 組む…造園・編物

この分類によると作家が万年筆を動かしている行為は、農耕民が鍬をふるう行為、さらには石器時代に石斧をふりかざす行為と等しいのである。文字の発明が語りの時代から書く時代へ転じたのではなく、「かく」という手段による意識の表出が現在に至るまで連綿と続いてきたのであり、「かく」ということ言うの一変種として「書く」が発生してきたのだ。

佐々木正人氏がアフォーダンス理論を語る際に、「サーフェイスの変形だけが人生」という概念に非常に類似性があるのではないか。化粧や料理はサーフェスにある本来の意味を残しながら、その意味を強調するというレイアウトの修正であれば、「書く」という行為もサーフェイスの変容と言える。では身体的な意識はどう加えられているのか。私達が日常で行うパソコンなどでキーボードを叩き、表示される文字とはどのように違うのか。

著者は「書く」行為は<触覚>と<痕跡>が統合された<筆蝕>であるとする。「話す」という行為は口調や全身を用いての表現に及ぶが、「書く」という行為は言葉以外の漏出的表出を基本的に許さないのだ。さらに語は章・節・句・語と構成されていると認識されているが、語をさらに微分すると偏と某、字画、起筆・送筆・終筆となりその先に筆蝕があり、その連続が「書かれた言葉」を生み出すのである。

1992年に書かれた本著は、現代の情報端末が取り巻く環境をどう見ているのか。
チャットは2chは、もはや話し言葉と同等で、Twitterのように「話し言葉」が進化している状況といえる。学校教育でもICT教育としてタイピングを教える現在において、「書かれた文章」を見極める術を私達は確実に失いつつあるのではないか。皮肉にもこの書評自体、構成こそノートで整理したものの、基本的にはパソコンで打ち込んでいる。

肉筆にある微妙なブレについてこう述べている。

”震えるのは下手で恥ずかしいからではない。人にみられているからでもない。世界の前に孤独に立ち、いままさに、単身で世界に傷をつけようとするその事の重大さに身を緊めているからだ。起筆し、書き始めたとき、人は自然の破壊者になり、他社の殺傷者となり、「書き手」となる。このときから、人は苦悩の世界に入り込む。”p156

本著で非常に残念だったのが、パソコンで打ち込まれた文章と、書かれた文章の違いの比較がなかったことだ。徹底的に主観に基づいて書かれていることなのである。個人的には電子書籍と本のような違いがタイピングと書く行為の違いがあると思う。それは書く行為というよりも、書かれたものがどのように閲覧されるか、という点にあるのでは。もはやパソコン以前の世界にもどることはできない。では、書くことの良点をいかに現在に復興させるかを考える価値はあるのではないか。って言ったままにしておく。

ちなみに、最近の著者は「縦に書け!――横書きが日本人を壊す」という本をだしており、現在もスタンスは全くブレてなかったことは嬉しくもあるのだが、もはや国粋主義的な雰囲気も感じ無くはなかったり…。まっ、そこも含めて愉しく読める本ではあります。



筆蝕の構造―書くことの現象学 (ちくま学芸文庫) 縦に書け!――横書きが日本人を壊す(祥伝社新書310) おろしや国酔夢譚 (文春文庫 い 2-1)
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2013年9月26日木曜日

インタラクティブ・インスタレーション展示技法ワークショップへ参加して


9月21日から24日の4日間、秘境祭を泣く泣く諦め、上記のワークショップへ参加した。
iamasでのアート/メディア/身体表現に関わる専門スタッフ育成事業の一環として行われているが、これがなかなか充実した4日間となった。

講師は展覧会エンジニアの金築浩史氏と西野隆史氏。日本のみならず世界の展示会で引っ張りだこで、圧倒的な信頼を持つふたりである。初日に25名ほどの参加者の自己紹介と基本的なプロの設営(補正機能を使わず、px単位でがっつりやる)を行い、2日目から最終日までで企画から設営、アーカイブまでしっかりやり切る。アイデア出しから決定までは実質半日もなく、いかにそれを実現するか、に注力が当てられた。

僕らのチームは床に空をプロジェクターで映し、じょうろを持って入り、傾けると雲が産まれ、雲が増えると雨に変わり、手を休めると虹空に変わるというものである。全てをプログラミングで処理すると、時間的に実現性が低いことから、マッピングはモニターを使ったアナログマッピングで対応した。インタラクティブが条件であったことから、プログラミングが必須かと思いきや、チームによっては完全にアナログでやりきってしまうも、このワークショップの醍醐味であった。

多くのワークショップでは参加者の心持ちはどこかお客さんのようなもので、主催者は一部店側のようで、つまり無理強いをしないのだ。では今回はどうだったか。アイデアをどうにか実現・展示することに重きを置き、途中報告を定期的に入れ、集中力を切らさずに、時にアドバイスをいれつつ、完成まで持っていく。講師の2人の立ち振る舞いは職人のようでもあり、編集者のようでもあり、素敵でございました。

アナログで行うインスタレーションは面白い。精度が高いことが前提だが、失敗時に、微笑ましい空気が産まれる。もしこれがプログラミングであれば同じようになっただろうか。単に失敗とされるかも。もちろんプログラミングの仕組みが理解した上で、これが行うことで意義があるだろうけど。

また今回スクリーンでのインタラクティブを始めて行って改めて感じたのは、インタラクティブはWiiやKinectに勝てんのかってこと。改めて今回WiiとかKinectの行為をを踏襲してるだけじゃないだろうか。赤松先生のUroboros Torchを観た時にも感じたのだが、デバイスを通す分アートはクリティカルな要素を受け取りにくい。一方、iPhone含めたデバイスはエンターテイメントと合理性に強く、インタラクティブもやっぱりエンターテイメントに強みをみせる。

身体性かぁ。アナログが面白いと思ったのはもしかしたらWiiやKinectに産み出せない部分だからなのかも。アナログ一辺倒の世界が素敵ということではなく。

反省としては、Maxで対応したけど、Processingでやればよかった。
要所要所で必要なプログラミングを選択できるようになっておく必要はあるな。Openframeworks頑張ろ。時間に余裕があれば、アナログな手法でもやってみたい。
やり過ぎると高校の文化祭みたいになってしまいそうだ。

最後に、久しぶりに学校外の人と作業するってのはいいもの。皆さん、応募してわざわざ大垣まで来てることもあり、モチベーションも高いし、非常に献身的かつ、自分の意見もいうものだから、愉しい時間を堪能させてもらった。

来月はYCAMに行けるかもしれない。
このWSでの経験はそこで少なからず役立つに違いないでしょう!


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