2015年5月29日金曜日

ブルーボトルコーヒーと深川不動尊における祈りの作法

モノからコトへ

もはや、古風な趣すら感じさせるこの言い回し、相変わらずよく耳にする。最近は行政周りの仕事もしているが、そこでもしばしば登場する。この言い回しがちょっと汎用的過ぎてるような気がするので、自戒も込めて書いてみる。要するに「コト」を問いただすのには「モノ」について鼻血が出るぐらいに突き詰めんといかんよね、っていう話。

前提として、製品開発やサービス設計の場合として進めていく。

機能中心設計から人間中心設計へ



正確な定義は特にないけど、「モノ」は"所有する喜び"に紐づいたもので、機能のスペック重視によるもの。この機能をより精度を上げるためには「なにを」「どのように」に改良すればよいかを考える。言うなれば昔のエンジニアリングの思考回路というべきか。一方、コトは「なぜ」が念頭におかれ、この機能が必要な理由から始まる。よく「モノ」は眼に見える要素で、「コト」は眼に見えない体験・心情、のように言われるその定義ではなく、設計・企画・デザインにおけるアプローチとしての違いとしておく。

この背景には「サステナビリティ」「コモディティ化」「コミニケーション」のようなキーワードがあるが、ここでは省略。

サービスデザインやUX設計では、人間中心設計が盛んに言及される。簡単に言うと、●●さんはこの状況でこう考えるだろう、それに対してAという機能があったらいいよね、それを実現するためモノの「なにを」「どのように」が組み込まれる。つまり人間中心主義の設計であろうと、どこかのタイミングで機能を軸に考えるタイミングが来る。ここがなんだかんだ大事だなと。


”祈り”としてのブルーボトルコーヒー

先月、東京に行った際、愛するつけ麺「紫の匠」を食べに門前仲町に行くついでに、清澄白河のブルーボトルコーヒーに立ち寄りまして。ブルーボトルコーヒーは単に「コト」というよりも、「コト」を実現するために、突き詰めて産まれた「モノ」の様式美、みたいな印象を受けました。一番感動したのはドリッパーの自動洗浄機。観た人はわかるかもしれないけど、あれって凄くない?



わざわざハンドドリップで入れることを、ロスを減らして実現するためにうまれた「モノ」と言いましょうか。「コト」から始まって、突き詰めてデザインされた道具と空間、つまり「モノ」。実現のためには定量的なデータも伴っていて、これを実現すれば1日あたり●時間のロスが改善され、何ヶ月でこの機能のコストは改修されるみたいな合理的なデータも兼ね備えているでしょう。素晴らしい。。陶器づくりのように量産されるハンドドリップは、もはや「祈り」のようだなと。非合理なモノの中に、コトが内包されていて、その実現のためのさまざまなモノの合理性。冷静と情熱。ツンとデレ。

 

思いつくのが、清澄白河ブルーボトルコーヒーから歩いてすぐの、門前仲町にある深川不動尊だ。良く言えば絢爛豪華、悪く言えばお金のにおいに包まれたこの建造物では、毎日5回のお護摩を行われており、それが凄いんです。

 

ミニシアターみたいな階段作りで、お経がスピーカーから流れ、馬鹿でかい和太鼓とほら貝と鐘の音と重なりあって、その真中では火がボウボウと燃えていて。白熱のジャズセッションの如く、トランス空間だったりしてます。ほんと録音して音源化してほしいわ。お護摩も密教での教え、コトから始まり、その実現のために様々なコトが含まれていて、ひとつひとつの物事には無駄なモノがない。本当によくできている。ブルーボトルコーヒー一号店が清澄白河あることは、関連あるんじゃね、と勘ぐってしまいたくなるぐらい。

肝心のコーヒーは酸味好きの自身が酸っぱいって思うぐらいだったので、皆さん大丈夫か心配でしたが。


ブルーボトルコーヒーが大切にする3つのこと


物理的なモノについての言及だけではなくて、サービスとか仕組みについても同じ。サービスデザインの手法のひとつである、カスタマジャーニーマップ等も、「コト」から始まり「モノ」についての飽くなき追求だ。相撲の作法とかにカスタマジャーニーマップを用いれば、その構造がいかに機能しているのかが見えてきて面白そうだ。

かつて、ブランド品は「モノ」からしか生まれなかった

単に「モノ」から「コト」というのが標語になっちゃって、作り手や産地のこととか、物語とか、共感とかで止まっている事例が多分に溢れているような気もしていて。コンテキストは面白いけど、結局「モノ」だったりするので。そもそもブランド品は「モノ」からしか生まれないというのが、この本に書いてあった。ちょっと長いけど、いいエピソードなので引用します。


日本の女性たちにはイタリアのブランドが大人気ですが、そういうブランドがどうして出てきたかは、考えたことがないのではないでしょうか。 イタリアの大学は五年制ですが、卒業しても二年くらいタダ働きをさせられます。インターンシップ制度が社会の中で確立しているわけです。その後やっと仕事を見つけて就職しても、もらう給料が手取り七万円。女の子たちはその給料を一生懸命に貯めて、毛皮を買うんです。そういう時に買う毛皮は、ロングコートです。仕立てを変えるたびに、ちょっとずつ短くすれば、お婆ちゃんになるまで一生着られるからです。着物と同じ考え方ですね。「若い人が毛皮を着ているから、イタリア人はお金持ちだ」なんて観光できた人は思うかも知れませんが、みんなすごく先のことを考えて買っているんです。 プラダとかグッチなどのファッションは、そういうお客さんたちが育ててきたものです。 p77

「消えるまで費やす」と書いて「消費」ってのは、まさにこのことか。ここで記される製品は、作り手の祈りにたいして、「コト」の成長とも言えるのかもしれない。いい「モノ」作れば売れて、使われるって時代でもないのが難しいところやけど、改めて「コト」について考えるってのは、「モノ」について考えることだよなーと。


なんでこんなことを書いたかというと最近、車を購入しまして、その納車待ちでして。仕事で必要だったりするけど、車がある生活の愉快さを想像すると、超ワクワクしててですね。東京では、車を手に入れる選択肢はまずないけど、ここではたかが移動手段、されど移動手段ですからね。そんなことを考えてたら、

モノ最高じゃん!!!!! 

とか思ったりしてニヤニヤしてまして。

上記の記事は、作り手側からのことやけど、使い手側も「コト」を産むために「モノ」をどう使うかってのも、見せどころではあるぜ!!

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