2014年1月26日日曜日

80年代・渋谷の都市論からみるテラスハウス


テラスハウスを今年に入ってから見始めた。
ボンクラ共と鍋をつつきながら、
あーだこーだ言いながら全力で愉しみながら観ている。

そんなテラスハウスについて、ベタなテレビだな!と思うことがあり、
思考の整理も兼ねて書いていく。

要点は以下の2点。

①80年代の広告としての都市 渋谷 ≒ テラスハウス
②スマホの存在を消し去ることでの有意性

この番組の冒頭で毎度、YOUが「番組が用意したのは、素敵なお家と、素敵な車だけ、台本はいっさいございません」と言う。

番組を観て、まず感じたのが80年代に展開された広告っぽいということ。改めて言うことでもないが、この番組の根底には「車のある若者のキャッキャした生活モデル」が介在している。都心部では車の利便性は圧倒的に低いため、鎌倉という地が舞台なのもそのせいだろう。

http://www.fujitv.co.jp/terrace-house/index.html

テラスハウスのサイト上ではCarの項目があるが、車の機能性などに関しては全く記載されていない。ここにも80年代の東京、特に都市=広告であった渋谷の街との類似性がみてとれる。

どのように類似性があるのかを、
広告=都市としての80年代の渋谷を分かりやすく説明したこの本を使って紹介していく。



少し周りくどい話になるが、
まず資本の論理について説明する。

資本の論理

資本の論理とは時間的、空間的に差異を利用(又は創出)して、共同体のなかに「他なるもの」を持ち込み、そのことによって資本の自己循環(交換過程・流通過程)を成り立たせる運動の理論なのである。(p21)

単に欲しいものを相互で交換し合う社会は、資本の論理とはいえない。各人が創りだしたモノ(野菜でも製品でもいい)を、隣人が欲しがる分だけ売っているのは資本の論理ではなく、「お金儲け」だけでは資本の論理は姿をださない。

つまりはどのように動機づけするかということ。
そして資本の論理の命題は「差異を見い出せ、そして利潤を得よ」。
その差異を産み出す技術こそ広告だ。

都市=広告の誕生

80年代の都市=広告として渋谷がどう誕生したかを簡単にまとめる。
(先にいっておくと、今の渋谷はもはや広告=都市としての機能はない)

広告は大きく3段形態にわかれる。

①ハードセル(機能を中心とした広告)
②ソフトセル(ヴィジュアルデザインを取り入れた広告)
③隠れたソフト・セル (日常生活に溶け込んだ広告)

①②だけではどうしても広告としての胡散臭さを持ったものを、
胡散臭さを消しつつ消費者に差異を感じさせるかを考えて産み出されたのが③隠れたソフト・セルである。

この隠れたソフト・セルによってうみだされたシンボリックな空間が80年台のパルコー西武 が産みだした渋谷なのだ。

「秩序」と「無秩序」を解体した「文化」という軸

80年代以前の都市と広告の関係は「秩序」と「無秩序」によって成り立っていた。

「秩序」とは広告が都市の景観に収まるように機能することで、
「無秩序」とは日常性をかき乱すアナーキズムに機能すること(ネオンサインや巨大広告)。

資本の論理下では”差異”を見出すために、日常的な景観(秩序)の中に、受け手に視覚に直接的に刺激する広告(無秩序)を取り入れなければならず、その狭間で「文化」という第三項を導入することで秩序と無秩序の2項軸を、解体したのが80年代の広告=都市であった。

その「文化」を導入しつつ、先駆的に築いていったのが、堤清二率いる西武ーセゾン・グループだったのだ。

80年代の渋谷のメタ構造

隠れたソフト・セルの象徴としての80年代 広告=都市の渋谷にはふたつの構造があった。

①ハコ(パルコ・西武といった百貨店)の内部を「街」として演出。
(当時のコピー:西部は新しい街です。)

②ハコ・建造物のある都市空間(街)を西武・パルコの広告空間として再編成する。
(当時のコピー:すれ違うヒトが美しいー渋谷・公園通り)

つまりハコの中にも、ハコの外の世界(街)も”広告”として機能させていくということだ。
こうして、80年代の渋谷は西武百貨店・パルコ/スペイン通り、公園通りにおいて、
「都市に広告を出す」から「都市を広告にする」という試みが行われたのだ。


ここから本著では広告=都市としての渋谷を形成する要素と、何故「都市」=「広告」が死んでいったのかを解説しているが、この記事とはあまり関係がないため、備考録程度にさらっと紹介しておく。

・ふたつの分析スタイル「文化形成論」と「消費社会論」
・街が推進していく3つの隠喩
①資本=外部の隠喩(文化・環境・生活というキーワードで資本の論理を中和すること)
②批評=外部の隠喩(広告に対する批判をアイロニー的な捉え、それをも広告化していくこと)
③私の禁止(①②により、都市=広告に内在する人々が外を眺めることができなくなること)


テラスハウスにあてはめてみる
前置きが長くなったが、テラスハウスを広告=都市のメタ構造に当てはめてみよう。

①ハコ(テラスハウス)の内部に街(都市に暮らす若者の生活)を演出する。
②ハコ・建造物のある都市空間(彼らの生活環境)をテラスハウスとして再編成する。

言い換えるとテラスハウスの登場人物は、外でも家でもテラスハウスに居るのだ。
この番組がうまいと思うのが、①と②をつなぐ方法として”車”が描かれるということだ。控えめでありながら、露骨に、全力で。

不自然だけども、車に乗りたくなる。か?

スマホを介させない他社の交流

このメタ構造の①と②を補完的に強調する機能としてもうひとつの演出がある。
それはスマホの存在だ。

番組内ではそれぞれがスマホを使った外部とのやりとりはほぼ描かれない。(もちろん編集的に除かれているだけだが。)外部の人間が描かれる場合は、テラスハウスの関係者として、彼らの生活環境(②)として描かれる。スマホによって外部の人間の存在が、この箱庭感の効果を減少させてしまうからだろう。(ドコモとか広告主として入っているといろいろと変わってくるだろうけども。)

この時代だからこその、テラスハウスを活用したメディア手法とか、
めちゃめちゃありそうだけど、それはまた別の機会に。


(山ちゃんいわく、トップガン的メガネ)

生活に密着した番組には東の横綱が「テラスハウス」とすると西の横綱は「ビックダディ」か。(観たこと無いけど)この比較論は面白そうだ、誰かやってほしい。

テラスハウスがかなり人気ということは、80年代で繰り広げられた広告のカタチが、姿を変えども機能しているということで、男女の恋愛もハイパーに永遠なのでしょう。
再度強調しておくが、広告の存在を非難してるわけでもなんでもなく、ただただあの生活が羨ましいだけだ。

あと今に始まったことではないが、YOUの”いい女”的なテレビでの扱われ方に、
激しく疑問を持つのは俺だけではないはず。
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2014年1月23日木曜日

モノとヒトとの関係性  〜クリティカルデザインから 〜


最近、モノとヒトの関係性ということを軸に悶々と考えている。
とりあえずこれらのサイトを列挙する。

  

  

Roomie Summly Fancy Origami…

最近よくみるソーシャルECサイトだ。
実際にこれらを自身も愉しく観ていたのだが、
ある時、なんというか、、、、
お腹いっぱい!!!!ってなりまして。

何故か、について改めて考えてみると、
昨今あまりにも「 デザイン 」されたモノが多すぎるのではないかと。
デザインはデザイナーが使用者の生活を想像し、頭を振り絞って考えて産み出されたもので、機能的であり、効率的であり、有用であり、ユーモアを持つ。

これはこれでいい。俺も大好きだ。

一方、消費者はそのデザインの有用性を文字通り消費することのみを行っており、極端に言うと思考停止している状態なのじゃないかと。
レヴィ=ストロース的にいうと「家畜化された」「栽培種化された」思考になるんじゃなかろうか。

モノには物の怪と言う言葉があるように、本来はもっと精神的な背景に背負ったモノであったり、使い手がもっと創造力を働かせて使う試みがあるんやないか?
と思った次第でございます。

そんなことで、「用いる」という点から「モノ」と「ヒト」について調べたことを体系的にメモ代わりに残していきたい。

初回はクリティカルデザインの視点から。(覚えたて、ということもあり)

概要

日本でクリティカルデザインを率先している牛込陽介氏のサイトから引用する。

未来について考えて議論することを人々に促すためのデザイン。特に、テクノロジーや地政学など、現代社会において複雑化している事象によってつくられるかもしれない未来や、つくられたかもしれないパラレルワールドを描くことが多い。(少なくとも僕は。)クリティカル・デザインの開祖、RCA デザイン・インタラクションズ学科長Anthony Dunne氏が著書「Hertzian Tales」に書いたところによれば、 
クリティカル・デザインは、プロダクトが生活の中で果たす役割についての思い込みや予測や常識に対して、思索的なデザインを用いて異を唱える。そのための手法というよりも考え方やスタンスである。

詳細については以下を参照。

牛込陽介 「クリティカル・デザイン」とは、自分なりのまとめ
http://www.ushi.ws/ja/activitylog-1/

スプツニ子 ドラえもん+ラディカルデザイン=ドラディカル・デザイン!
http://www.cbc-net.com/dots/sputniko/02/ 

What is "Critical" About Critical Design?
https://www.academia.edu/3795919/What_is_Critical_About_Critical_Design

特に最後の参照はDunneとRabyのクリティカルデザイン論にはまだまだ解釈の余地があることを述べた論文であり、授業で苦しみながら読む機会があり、非常に興味深かった。

その内容から、もう少しにクリティカルデザインを掘り下げて、モノとヒトの関係性を探っていく。

「肯定的なデザイン」と「クリティカルデザイン」

DunneとRabyはクリティカルデザインには2つの志向性があり、「肯定的なデザイン」と「クリティカルデザイン」を挙げている。

「肯定的なデザイン」とは、現在を強化するデザイン、つまりは”有用である”ことを突き進めたデザインだ。現在のほとんどのデザインがここに当てはまる。文頭のサイトで紹介した商品のほぼこの「肯定的なデザイン」に含んで良いだろう。一方「クリティカルデザイン」は、現状の状況にデザインでもって批評性をあたえるものとしている。

論文の著者は資本主義の中では「肯定的なデザイン」と「クリティカルデザイン」は2軸に分けることが難しいことも述べている。ファッションの例でいうとヴィヴィアン・ウエストウッドはオートクチュール(特注の仕立て服)に対するカウンター・カルチャーとして誕生した後、商業的な中に押しなべられることがあったりと。そもそも誰がその2つのデザインの違いを決めるんじゃい?という難しさもあるとか。

クリティカルデザインの2つの体系

この論文の著者達はクリティカルデザインが他のデザインと区別する点として”批評性”を挙げており、クリティカルデザインを2つの体系に別けている。

それがCritical theory(批評理論)とmetacriticismだ。

前者は1950年〜80年の間に展開されたニーチェの哲学をベースとした懐疑的に汲み取る方法をモデルとしている。

後者は「何が批評を分類するか?」、「どのように良い批評と悪い批評を区別するのか?」、「批評の社会的役割は?」といった問題に、感性と洞察力を知覚し汲み取るり、向き合う試みという役割を持っている。

要約すると物事の表面の裏側にはどういったことが隠れているのか?ということを示唆している。( 雑過ぎるか )

物事の裏側を読むと聞いて、まず思い出すのはアントニオ猪木と箒の話である。ヒロ・マツダさんが生前に 「猪木という男は、相手がホウキであっても名勝負ができる」 といった言葉の通り、プロレスで観客に創造力を働かせることができるのだ。(もちろんここには批評性はない。いや、俺にはあった。)

話を戻しましょう。

「用いる」ということに眼を向けてみる

正直、存分にクリティカルデザインを理解していないのだが、個人的には、「肯定的なデザイン」と「クリティカルデザイン」の間には大きなグラデーションもあり、別の解釈も多分にあると感じている。

既存のモノでありながらも、用いる人に創造力を膨らませるモノはあるのではないか。

モノを創ること・デザインすることで概念を伝えるのではなく、既にあるモノを使い方・組み合わせ方の提案から、利用者の思考を促進させることはできないか。

編集的だったり、ヒップホップ的思考や、DJ的思考のようなもので、それこそプロレス的思考でもあるのだ。それはレヴィ=ストロースでいう「ブリコラージュ」の概念だったりするのではないか。

松岡正剛 の千夜一夜  レヴィ=ストロース 悲しき熱帯
http://1000ya.isis.ne.jp/0317.html

こんな感じで具体的にどのような手段があるのか、その方法を考えつつ、
次回は別の角度でモノとヒトとの関係性について深めていきたい。





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