2014年8月20日水曜日

出雲で拝み、YCAMは潜る ~ 地域に潜るアジア展が示す、これからの10年 ~

この週末、出雲大社、そしてYCAMに行ってきた。




初めての出雲大社。昨年の「編纂プロジェクト」で神社にはまり、神話を調べ、後白河天皇を敬い、出雲大社に憧れた。そんな待望の出雲大社。しかも地元在住のナビゲーターの存在もあり、いい面構えの犬もいて、ご満悦です。諸星大二郎みたいには想像力は働かなかったけども、”答え合わせ”はできたかも。




行きの電車で時間が遅くなったため、出雲そばは食えずなのが心残りではある。余談だが、”出雲そば”を初めて知ったのは桃鉄。目的地である出雲の産業には、出雲そばがずらりと並び、1,000万円 利益50%と優良な産業だったような気がする。今思えば、地域の特産を買い占めまくるという、もの凄い新自由主義的なゲームやな、ってふと思ったりする。


さて、出雲で過ごした後のYCAMである。
昨年9月にampで1ヶ月弱の滞在ぶりなのでほぼ1年弱の再来訪。

今回の目的は2つ、「コロガルパビリオン」と「地域に潜るアジア展-参加するオープン・ラボラトリー」だ。

署名で復活したコロガルパビリオン




コロパビについては以前の投稿で書いたので詳細はそちらに回すとして、相変わらずの120%で遊び回る子供たちがそこにはいた。

コロガルパビリオンは昨年、期間終了で閉鎖が決まっていたのだが、子供たちの署名活動で1000人分が集まり、その再開が決まった。

http://www.ycam.jp/press-release/korogaru-pavilion-reopens.pdf

このニュースから、これが歴史を作ることなのかも、と仰々しく思ったが、あながち間違ってないか。新しいコロパビには、霧を活かした装置や札幌のコロパビとのモニターと受話器での交流といった、新しい遊びを子供たちが思考実験するための”仕掛け”が設置されている。さらに、毎週金曜日に実物のヤギが導入される。”生物”がブチ込まれることでどういう現象が起きたのか。これはぜひ見てみたかった。また運営にも工夫が繰り返されており、常に留まらない。

コロパビの存続について

様々な遊びを子供たちと考え、メディアで表現する創意工夫あふれるコロパビであるが、存続させるための手法が”署名”という非常に直線的かつ、政治的には効果的な手法で、継続が決まったというの運営側としては嬉しいけれども、まだまだ他にも出来るだろう!っというのも本音だそうだ。ストイックというか、真摯な葛藤が垣間見える。

市民施設であることから、利用料での運営でない。市民の税金が導入されているのだから、利用者と運営者という面はもちろんあるが、利用する側が無料で利用できるというところで完結してしまうのか、またはこうあってほしいという意思が存在するのか。子供だけではなく、親、もしくは大人の存在にも焦点が当たる。

大人達はコロガルパビリオンをどうみる

子供が愉しむだけではなく、大人も愉しむための場となるには、それを与えるのではなく子供から、大人から引き出す。子供たちが”考える仕組み”を子供を”責任あるひとり”として向い合って試みてきた、それを大人まで引き出すこと。

今月末で一旦コロガルパビリオンは一旦閉鎖される。その後、どのように姿を変えるのか、もしくはこのまま閉鎖されてしまうのか。

「地域に潜るアジア展-参加するオープン・ラボラトリー」同様、次のYCAMの10年が始まった、という印象がする。


「地域に潜るアジア展-参加するオープン・ラボラトリー」を観る

http://www.ycam.jp/art/2014/07/media-art-kitchen.html




インドネシア・マレーシア・シンガポールなどアジアのアーティストと、山口に暮らす人々が共同でつくる、小さな集落がそこにあるかのような展示。2014年3月よりYCAM内に5つのラボラトリー(竹・食・穴・メディアテクノロジーと地域・音)が設置され、地域社会の課題や資源に対して、まさに交流を行っていく過程をみせる。

これまでのYCAMでも地域の商店街との連携などは、ななつぼし商店街などがあるが、リソースを全面に出して取り組むということは初めてなんだとか。館内における展示やインスタレーションはインタラクティブな体験であっても、山口における営みとはどこかで乖離したものであったかもしれない。それが10年を経て地域と腰を据えての対話を試みている。

「まちおこし」と「地域解決」

突然だが、”まちおこし”という言葉があまり好きではない。既にある”歴史”を観光資源の素材として過大に相対的に表現することは、生活者の意図とは遠いところで生まれてしまうことが往々にしてある。例えば大垣にある芭蕉記念館をみてみると、それが暮らす人達の対話の上で誕生したものかどうか。芭蕉が産まれた場所でも、亡くなった場所でもなく、”旅を終えたとこ”をそこまで引っ張りあげたのは逆に凄いとも言えるが。

”地域解決”って言葉も同様だ。”解決”が誰がためのがよくわからなくなる。例えば、街にコストコができれば便利だし、ありがたいのかもしれない。デカいショッピングモールが街に訪れた結果などは、日本や海外でも多く語られるところなので、そこは参考リンクをみてもらうとして、”解決”が”与えるもの”と”与えられるもの”での構図でしか行なわれないのであれば、それは暴力的ともいえる。

【田舎論】イオンは文化の破壊者か、救世主か・・・ネットで議論紛糾



野暮な言及だが、今回のこの展示は”街おこし”でも前述のような”地域解決”でもない。言うなれば社会情勢や今ここで起きていることに着目して、求心力のある場を用意し、対話と手を動かして、創りだすアプローチ。非日常を演出するのではなく、日常の中にダイバーシティが潜んでいることの実践である。






YCAMに入ると、ホワイエを全面に使ったどデカイ竹の建造物が目に飛び込んでくる。自身が滞在していた際は、坂本さんのForest Symphonyが森や山との対話を通した、非常に洗練された展示と対照的に、今回の展示は野生のアプローチをビンビンに感じた。もう導線とか全くよくわからないし、あらゆるところでいろんな取り組みの事例が紹介されている。村というか、もはや市場。




今回の参加者のひとりにインドネシア出身のヴェンザ・クリストがいる。彼は東南アジア初のファブラボであるHONF Fob Labを立ち上げた人物で、HONF Fob Labは利用方法が野生のFab labとして注目されている。日本や欧米で必要なものがあれば、多分買ったほうがコスト的にも時間的にもめちゃ安い。ポチれば翌日には届く。でもインドネシアで欲しいものを買おうとしたら、給料の3分の1とか発生することがある。だから必要な物を作ってしまう、という本来のFab Labの姿が体現されているのだとか。


そのバイタリティがこの展示に多分に影響を与えているのは間違いない。

またヴェンザはHONF Fob Labの以前にHONF Foundationを立ち上げ、そこでインドネシアで"Democratizing Energy" を試みる、HONF-Micronation/Macronation Projectを行っている。


その流れもあるのか、竹のエネルギー化を模索したが、既に様々な手法で試みがあるがなかなか実現にいたっておらず、今回も展示で使った竹のその後のことなど、まだまだ先はあるようだ。


今回の展示のリファレンスのひとつに上山の限界集落での取り組みがあるとのこと。

限界集落を”集楽”に!美作市地域おこし協力隊が ”全国最強”とよばれる秘策とは?

この記事にも書いているが、何が凄いってアイデアが出た後のスピードに尽きる。やっちゃ駄目って言われることは、「俺が村を!!!」という保守的な力を持っている人の声で、動きづらいことがあるのは地方ではよくある。悪いことばかりじゃないかもしれないが、こういう活動にはその状況は厳しい。ただ限界集落まで行くと、もはやそれすらも失われてしまっている。だからこそのこのスピード感。そして何より本人達がめちゃめちゃ楽しんでやっているのだとか。無理をしない、愉しむ、仲良くなる、で無茶も厭わない。この姿勢が参考になったのだとか。そこにアジアのバイタリティが交じり合ってのこの展示か。妙に納得した。

美濃の家での活動と照らし合わす

自身も、美濃での活動を模索している。
今回の訪問は手法を知るというよりも、その姿勢を知ることだったのかもしれない。

iamasでの美濃の家プロジェクトは昨年から様々な取り組みを行っている。お化け屋敷やラジオワークショップや作品の展示、流しそうめんをしたりと。うだつの街にある古民家を活かして学生たちがどう表現できるか、という趣旨のプロジェクトである。自身は昨年は参加していなかったが、実際に、プロジェクトが進むにつれて、街の人達の認知は確実に上がっており、次に何をするかという期待もあるのは体感として伝わる。

プロジェクトの美濃の街との関わり方はどうかというと、顔が知れたといえども月に1~2回しか訪問しない外部であり、極端な言い方だが、観客と提供者という構図はある。

この数ヶ月その構図ではない実践を模索し、動いていた。非日常を演出するのではなく、日常の中にダイバーシティと冒険が潜んでいることを見出す実践をどうすればいいかと。

対話や参与といえどもレイヤーがある。年齢と参加の頻度と期間とすれば、例えば小学生を対象として、期間は1回なのか、1週間なのか、1年なのか、といったように。ワークショップやイベントを企画をする際に、どの人達を対象とするのかを定義して、のちの考察の際にもそこを軸に振り返りができる。

美濃の家に石窯を作ったのも、食という生産と消費が同時に行われる場であり、参与のハードルのベースとなることを目指したため。まさにコロガルパビリオンが産み出す求心力のように。

そして美濃の家にまずは1週間ではあるが、暮らして潜ってみた。あまり深くは潜れてないけども、街の人や商売する人、女子高生らとの話、図書館でかつての美濃の活気ある姿などを通して、街がもっている表面的な課題というのは理解はする。それ自体を解決することが目的ではない、ということを改めて自覚する。

時間的に焦ってしまいたくなるが、無理したら多分うまくいかない。無理はしないけど無茶は目論む。前回の投稿じゃないけどGO ADVENTUREって感じに。

そういう意味でも、今回のYCAMに訪れて、じっくり話せる機会を頂いて本当によかった。ありがとうございます。出雲大社のおみくじにはろくなことが書かれてなかったけど、改めて報告できるように。

最後に、山口でのスケボーがめちゃいい。自転車だと早すぎる、歩きだと遠い。平地が多いし、ちょうどいい。美濃もそうだけど、スケボーを出先に持っていくのハマりそう。



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2014年8月4日月曜日

POPEYE(ポパイ)新機軸が抱える矛盾とは


POPEYEのここ最近の編集方針が変わってきたなと、興味深く眺めていたら、Amazonにこんなレビューが書かれていた。



どうしたポパイ 2014/7/12
無地の白Tシャツに、裾をまくった太めの軍パン。
半端丈のチェスターコートに、白い靴下、ぶっとい黒ぶち眼鏡。
リニューアル後のポパイが主張した「シティボーイ」スタイルが街の
お洒落さんにもたらした影響は多大だったと思う。
しかしここ数号のポパイは冒険だの海外だの、そんな功績を忘れたか
のような内容ばかり。読者置いてけぼりの内容は、外から見ていて
編集者が勝手なロマンチシズムに浸っているだけに感じられてならない。
背景の無いファストファッションでも特に不満を持たない今の若者でなく、
DCや裏原の洗礼を受け、たかが洋服屋に行列をなす30代以降こそが
実際の読者層になりうることをこの数年に学んだのでは無かったのか?
(形式上、若者をターゲットにしていたとしても)
物欲にまみれないファッション雑誌なんてクソだ。
そんなテーマはブルータスでやればいい。

物欲にまみれないファッション雑誌なんてクソだ。

なるほど。最高の響きだ、言い得て妙である。

POPEYEは2012年6月号からリニューアルにおいて、ターゲットを30代~40代へとシフトし、私の周りのお洒落なおじさん達からは比較的、好意的な反応があったことを覚えている。そんな私といえば正直、ドンピシャではなく、リニューアルと言われてもそれほど機微に触れるものではなかった。むしろ中学・高校時代にはPOPEYEよりホッドドッグ・プレスを愛読していた。あの欲望むき出し感がたまらなく好きで、北方謙三先生の相談コーナーは若き日の自身の形成に一役を買った。(結局、ソープには行ってはいないが。)

そんなPOPEYE、2014年7月号の特集を思わず買ってしまった。ポートランド特集である。その翌月8月号はGo ADVENTURE!と題して、海外を旅する特集が組まれている。


それまでの極端に言えば「都市 = ニューヨーク」に重きを置いた編集方針から何かが違う。実際に8月号の特集巻頭ページにて以下の言葉が書かれている。

冒険へ出かけよう!
リニューアルしてポパイも2年ちょっと過ぎた。
2年前にはバタバタしていたなんだかぼんやりしていたけど、
最近、シティボーイについてあらためて考えてみた。
まず、どこに住んでいるとか、何を着ているかなんてのは、どうでもいい。
それよりも、大切なのは電車やバスで席を譲れたり、
周りの人に対してジェントルであること。
そして、常に好奇心と自分のスタイルを持ち合わせているか。
あとは、いつまでも冒険心を失わないこと。それが重要なんじゃないかな。
今回の特h数は”冒険”。果てしない憧れの旅から、近所の散歩まで、
シティボーイライフにはいつでも夢中になれる冒険が必要なんだ。
POPEYE (ポパイ) 2014年 08月号


これは消費と物欲に対する宣戦布告なのか、ただの青臭いロマンなのか。
ファッション雑誌が”何を着てるかなんてのは、どうでもいい”と言ってしまって大丈夫か。

その心情たるや理解できる。大垣に修学のため、移り住み、消費・生産・都市について考察する機会があり、解脱するかのように自身の消費の捉え方も幾分、変わったので。

とはいえ、この特集をフッション雑誌であるPOPEYEが組むのには少し違和感が拭えない。前述のレビューの通り、ファッション雑誌の主な広告先は最終的には物欲の促進なのだから。もっと言うと、ポートランド自体が、行き過ぎた新自由主義や消費至上主義に対する痛烈なアンチテーゼとして相対的に顕在化してきた都市である。だからポートランド的な文化や暮らし自体が既存の資本の論理と異なるアプローチであるにも関わらず、ステレオタイプの資本の論理に照らして紹介することが何より胡散臭い。

資本の論理について関連記事
80年代・渋谷の都市論からみるテラスハウス

それはGoogle MapのCMと同様の気持ち悪さを感じる。Googleに比べ、POPEYEのほうが本音と建前に対して、誠実な姿勢は見て取れるけれども、それでもどこか無理を感じざるを得ない。例えば、勢いよく表紙に記されたGo Adventure!、そしてその裏表紙は黒いスーツをビシッッ!!と着込んだEMPORIO ARMANI!!!っておかしい。笑  確信犯、だったら凄い。

改めて、ポートランドについて少し書いてみる。
この本が中々面白かったので併せて紹介しておく。


言われなくても行きたいよ!ポートランドについて

オレゴン州北西部マルトノマ郡にある都市で、人口は約60万人の中都市であるが、ニューヨークやカリフォルニア、中央政府といった、メインストリームと離れた場所においてインディペンデントな精神が確立され、その精神があってか高速道路拒否や1970年代に都市成長境界線といった政策を敢行、都市機能を管理しやすいサイズに留めた。西はサーフィン・キャンプ、東はスノーボードと自然を愉しむ環境があり、さらにカウンターカルチャーや北カリフォルニアにあったヒッピー文化が引き寄せられた。その街に住む人達の距離は物理的に近く、相互に情報や知識を助け合いながら織り交ぜていくことで、現在のコアヴァ・コーヒー・ロースターを始めとする、新鮮な地域の食材を活かした食文化や、アレックス・カルダーウッドが設立したエース・ホテルのような様々なクリエィティブに関わる人達が集まる場がうまれていった。現在、「小商い」というワードが各所で聞くことが多いが、ポートランドでは自宅のガレージや、安い物価や土地のおかげもあり、小規模でもいいから、自分たちが好きなことで生業をつくる「小商い」が既に至るところで実践されているのだ。ちなみに私は行ったことないので、これは全部受け売りの情報であることも追記しておく。

1979年の同年代に別の道をたどった都市としてデトロイトがある。自動車産業でアメリカの工場を一挙に引き受けたモーターシティと呼ばれたその都市は2013年7月に破綻し、現在では全米一治安が悪い街とされている。現在はOPEN GOVERNMENTなどで、一部では再起の動きもある。

破綻都市デトロイトをスタートアップが救う!コミュニティ再生の鍵は「民間」にある


この両者の都市の動きについてはジェイン・ジェイコブズや松戸市におけるMadcityについての考察も交えて広げたいが、話が逸れるのでここは次回に繰り越す。

現在、ポートランドが取り上げられる流れは、サブプライム危機以降のアメリカでの消費に対する「行き過ぎた時代」に対し、”より多く”から”よりよく”への変容を実践している場であるからなのは間違いない。その姿勢や手法は自分たちの手の届く範囲で、手に在る道具でまずやってみるというトリート・カウンターカルチャー的である、だからこそPOPEYEは叫ばずにはいられなかったのだろう。

タイムリーではあるが、8月1日の東京ポッド許可局でも「働く論」が展開されている。場所は違えでも言っていることは同じである。日常と非日常の境目がなくなってきているということ。




編集方針を変えさせたのは何か?

消費至上主義が陰りを見せる最中、広告がよく入っているなぁ、と感心する雑誌がある。「Spectator」である。


基本的に毎号、商業主義とはレイヤーが違う特集を行っていながらも、これほど広告が入っているのは凄い。さらにその掲載の仕方も潔く、200ページ弱ほどのページ数に対し、頭から20~30ページほどはBeams・URBAN RESEARCHのようなセレクトショップやアウトドアブランドが一気に掲載され、巻末の4ページほどに小さい企業やお店の広告枠がある。本文中には一切広告はない。よく特集間に紛れ込んでいるブランド服の紹介なども一切ない。男前だな。

ちなみに29号と30号では「ホール・アース・カタログ」に関する特集が2号続けて存分に掲載されている。「ホール・アース・カタログ」の説明は雑誌を買っていただくとして、ポートランドのルーツをたどっていけば、「ホール・アース・カタログ」の名前にたどり着くのだろう。だからこそ、エネルギー・環境・食・暮らすことについてあらゆる言説が飛び交う現在に、「ホール・アース・カタログ」に目をつけた「Spectator」に敬意を払いたくなる。そしてこの特集、熱量が高い。1970年~80年代当時に起きたアメリカでの出来事を羅列するのではなく、現在から観た視線というのを随所に織り込められている。しかも、日本は日本で「ホール・アース・カタログ」の文脈を「遊」や「別冊宝島」など、独自の発展を遂げたことも在り、その辺りも、うかがい知ることでき、日本の雑誌だからこそできた特集とも言える。IAMASにてこれからの創造のためのプラットフォームの勉強会があるけれども、この特集号はリファレンスとしていいと思う。

「Spectator」のこの特集は、POPEYE編集者たちにも与えたのではないだろうか。とは言え、「Spectator」と同じことをPOPEYEが繰り広げても面白くないので、ネクストレベルのCity Boy像をどう示すのか、前2号の反応は賛否両論といったところではあるので、果たしてこの後、どういった方針に進むのか、舵を切り戻すのか、それとも…… 愉しみにその動向を伺おう。


余談ではあるが、「Spectator」30号において、「ホール・アース・カタログ」に深く関わったひとりケビン・ケリーが、現在のカウンターカルチャーについての質問をされていた時に、ビットコインやオープンソースの世界にはカウンターカルチャーを感じるが、Makerのシーンには感じられない、っという発言があったのは興味深い。同意。

あと雑誌はやっぱり好きだな。「Rocekt magazine」とかZINE的な小規模でも、切り口がユニークなもので賑わってる。作りたい妄想もかなり膨らんでるんで、ちょっと進めていきます。
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2014年8月1日金曜日

テレクラキャノンボール2013に、内田樹が語る”真の才能”を見た



 
テレクラキャノンボール 2013を観た。劇場版テレクラキャノンボールではなく、オリジナル版である。劇場版が観たすぎるのだが、上映場所がどこも遠い…!!で、耐え切れなくなり10時間ある劇場版じゃないテレクラキャノンボール2013をDVDをポチッと購入。



10時間だから日々1時間ぐらいづつ観ようと思っていたが、あれよあれよと一気に観てしまった!『24』とか海外ドラマでもこんなに継続して観たこと無いってぐらいの熱量での完遂。もう圧倒的なマスター・ピースで、現時点では今年No1!!!

カテゴリはAVなのか、ただはっきり言って”ヌケる”要素はほとんど無い。これは作品の冒頭でも記述されている。では何があるのか。人間ドラマであり、人間力とはなにか、がここには余すところ無く描かれている爆笑あり、涙ありのドキュメンタリーといえる。

簡単に作品の概要を。


バイクとテレクラを愛してやまないAV監督のカンパニー松尾が、バイクを走らせ、テレクラで素人女性をゲットしたいという思いから1997年にスタートさせた企画ものアダルトビデオ「テレクラキャノンボール」。その2013年度大会が開催され、カンパニー松尾、バクシーシ山下、ビーバップみのる、タートル今田らが参戦することに。バイクや車を飛ばして、東京から仙台、青森を経由して札幌を目指しながら、テレクラ、ナンパなどで素人女性をゲットしていく面々。そんな彼らに、さまざまな出来事が待ち受けていた。 
シネマトゥデイ
   (シネマトゥデイの解説書いた人は作品を本当に観たのかどうか怪しいぜ…。)

ルール説明

勝負のポイントは大きく2種類あり、ひとつはレースポイント。東京から仙台、青森、札幌間での先着順。かつ、バイクの場合は有利なためパーキングでの飯ストップ2回など、細かいルールが設定されている。

もうひとつはSEXポイント。仙台と札幌で繰り広げられるナンパや出会い系、出会い喫茶を駆使して女性を撮影をすること。これまた様々と細かく、SEX中に1番と言わせたらプラス1ptなど複雑であるが、奥ゆかしさを感じるほどのルール。だが、このルールが絶妙なのだ。

恐らくこれまでの度重ねられたレースによって推敲されたルールであり、おそらく世の中のスポーツとかって、こんな感じで変化してメジャー化して来たんだろうな。カーリングとか。

爆走、出会い、パーキングのカレー、そして濃厚な人間ドラマ

はっきり言ってレースバトルだけでも充分楽しめるのだが、人間ドラマが凝縮されているのはやはりSEXバトルなのである。内容に関してはネタバレも多いのであまり詳しく言えないが、この映画の一番の訴求力というのは競い合う6人のAV監督のそのパーソナルが徐々に露出してくるところである。画面に登場した時の胡散臭さは、すさまじいものがあったが(バクシーシ山下はどうみても普通のおじさん)、見終えた後の一人ひとりの誠実さ、紳士な行為に驚く。そしてひとりづつガッチリ握手をしたくなる、そんな気持ちにもさせてくれるほどである。

彼らは女性に対して、どこまでも優しい。AVに出てもらうだから優しいはねぇだろう、って思う人もいるかも知れないし、もちろん職業だから、ホストが女性に優しい、ってのも同意義かもしれないけど、そこには利己的で商業的ではない、彼らの誠実さが溢れでているのだ。

物理的にポイントゲットできる彼らにとって女性はポイントなのだけれども、それでも女神であり、男性は拝むように女性を抱き、多くの出演した素人女性は「ありがとう」微笑みながらその場を立ち去っていく。なにこの祝祭感。

既存のAVには”抜く”という行為がセットであるのであれば、やはりこれはAVではない。もちろん人間ドラマを引き立てる重要な要素ではあるけれども、SEXシーンはメインではなくあくまでも引き立て役なのだ。

そして一人ひとりがそれはもう、ひどい目にあう。おっさんのような容姿の女性が出てきたり、なぜ、そこまでするのか、、自分だったら、、と悲惨に思う瞬間は同時に爆笑を産み、そしてその行動が後に歓喜を産み、熱狂を産む。彼らはAV監督ではあるが、ある意味サラリーマンとして飯を食っている人間であり、アブノーマルがデフォルトな人達ではない。そんな彼らがここまで本気を出さなければいけない時があり、それがテレクラキャノンボールなのだろう。

競争メンバーのひとり、ビーバップみのるは劇中のある場面でこんなことを言う。


「ぼくらは人とは違うことをして、飯を食わせてもらっているんだから、やらなきゃ駄目なんだよ」

この言葉を聞いて最初に思い出したのが、内田樹氏のあるブログである。

『半分あきらめて生きる』
http://blog.tatsuru.com/2014/05/14_0818.php

私が問題にしているのは「真の才能」である。なぜ、私が「自己評価の下方修正」についての原稿をまず「真の才能とは何か?」という問いから始めたかというと、「真の才能」を一方の極に措定しておかないと、「才能」についての話は始まらないからである。というのは、私たちがふだん日常生活の中でうるさく論じ、その成功や失敗について気に病んでいるのは、はっきり言って「どうでもいい才能」のことだからである。
「富貴」をもたらし、「享楽主義」や「現世利益」とも相性がよいのは「どうでもいい才能」である。それは思想とも宗教とも関係がない。そんなものは「あっても、なくても、どうでもいい」と私は思う。 

この世のシステムはいずれ崩壊する。これは約束してもいい。いつ、どういうかたちで崩壊するのかはわからない。でも、必ず崩壊する。歴史を振り返る限り、これに例外はない。250年間続いた徳川幕府も崩壊したし、世界の五大国に列した大日本帝国も崩壊した。戦後日本の政体もいずれ崩壊する。それがいつ、どういうかたちで起きるのかは予測できないが。
私たちが「真の才能」を重んじるのは、それだけが「そういうとき」に備えているからである。「真の才能」だけが「そういうとき」に、どこに踏みとどまればいいのか、何にしがみつけばいいのか、どこに向かって走ればいいのか、それを指示できる。「真の才能」はつねに世界のありようを根源的なところからとらえる訓練をしてきたからだ。
問題は「すべてが崩れる」ことではない。すべてが崩れるように見えるカオス的状況においても、局所的には秩序が残ることである。「真の才能」はそれを感知できる。


テレクラキャノンボールには「真の才能」が溢れ出ているのではないか。

出演者達が公道をありえないスピードで駆け抜ける姿、パーキングエリアでカレーを流し込む姿、ナンパをし女性を口説き続ける姿、ベンチで肩を落とし姿、ハメ撮りをする姿、そして苦悩する姿、そんなどこに真の才能があるのか、と思うかも知れない。

ただ内田樹がここで言う、「どうでもいい才能」は垣間見えない。そして彼らは社会的には不適合なアウトローなのかもしれないが、世の中の見方のレイヤーがきっと違うのだ。


(こうやってみるとテラスハウスみたい)

少しネタバレだが、ある女性が登場した際に、テロップに”こちら側の人間”という言葉が表示される。これはカンパニー松尾が無意識ながらも、その自覚を持っている現れのように感じる。この映画の中での出演者は「費用対効果のよい生き方」を選ばず、不器用ながらもその”あるがままの自己”を受け入れている。

”半分あきらめて生きる”は、覚悟して生きることなのかもしれない。この作品のキャッチコピーでもある「ヤルか、ヤラないかの人生なら、俺はやる人生を生きる」にも通じるだろう。先日「ぽこ×たて」で一躍人気の俳優・沢井亮がLINEで未成年との淫行で捕まった際のインタビューを観て同じことを思った。炎上案件で漢を上げるとは…

未成年淫行で逮捕のAV男優がシャバでしQちゃんに懺悔! ヤリチンは治らないキュウ…

AVやアウトローな仕事という条件は、考慮すべきかもしれないけども、つまりは信じるものと覚悟の問題であろう。それはマッスル及びDDTからも同じことを感じる。覚悟を持って、表現として行う、そしてサバイブすることなのである。

なんにせよこの映画からはその覚悟と表現が伝わってくることは間違いない。劇場版は女性でも見れるような、カンパニー松尾の神編集らしいので先入観を取り除いてまずは観て欲しい。というか、俺も観る。





それにしても「性格よし子ちゃん」で日本のAVのハイコンテクストぶりは凄いなって、関心してたらこのキャノン砲ですよ。ちなみに前述したビーバップみのる監督の過去作品とかアート作品の文脈でもいけるんじゃない、ってぐらいの鬼畜っぷり。かつ、現在製作中の作品も、混沌としているな。。



ビーバップみのる監督作のAV「501」



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