2014年8月1日金曜日

テレクラキャノンボール2013に、内田樹が語る”真の才能”を見た



 
テレクラキャノンボール 2013を観た。劇場版テレクラキャノンボールではなく、オリジナル版である。劇場版が観たすぎるのだが、上映場所がどこも遠い…!!で、耐え切れなくなり10時間ある劇場版じゃないテレクラキャノンボール2013をDVDをポチッと購入。



10時間だから日々1時間ぐらいづつ観ようと思っていたが、あれよあれよと一気に観てしまった!『24』とか海外ドラマでもこんなに継続して観たこと無いってぐらいの熱量での完遂。もう圧倒的なマスター・ピースで、現時点では今年No1!!!

カテゴリはAVなのか、ただはっきり言って”ヌケる”要素はほとんど無い。これは作品の冒頭でも記述されている。では何があるのか。人間ドラマであり、人間力とはなにか、がここには余すところ無く描かれている爆笑あり、涙ありのドキュメンタリーといえる。

簡単に作品の概要を。


バイクとテレクラを愛してやまないAV監督のカンパニー松尾が、バイクを走らせ、テレクラで素人女性をゲットしたいという思いから1997年にスタートさせた企画ものアダルトビデオ「テレクラキャノンボール」。その2013年度大会が開催され、カンパニー松尾、バクシーシ山下、ビーバップみのる、タートル今田らが参戦することに。バイクや車を飛ばして、東京から仙台、青森を経由して札幌を目指しながら、テレクラ、ナンパなどで素人女性をゲットしていく面々。そんな彼らに、さまざまな出来事が待ち受けていた。 
シネマトゥデイ
   (シネマトゥデイの解説書いた人は作品を本当に観たのかどうか怪しいぜ…。)

ルール説明

勝負のポイントは大きく2種類あり、ひとつはレースポイント。東京から仙台、青森、札幌間での先着順。かつ、バイクの場合は有利なためパーキングでの飯ストップ2回など、細かいルールが設定されている。

もうひとつはSEXポイント。仙台と札幌で繰り広げられるナンパや出会い系、出会い喫茶を駆使して女性を撮影をすること。これまた様々と細かく、SEX中に1番と言わせたらプラス1ptなど複雑であるが、奥ゆかしさを感じるほどのルール。だが、このルールが絶妙なのだ。

恐らくこれまでの度重ねられたレースによって推敲されたルールであり、おそらく世の中のスポーツとかって、こんな感じで変化してメジャー化して来たんだろうな。カーリングとか。

爆走、出会い、パーキングのカレー、そして濃厚な人間ドラマ

はっきり言ってレースバトルだけでも充分楽しめるのだが、人間ドラマが凝縮されているのはやはりSEXバトルなのである。内容に関してはネタバレも多いのであまり詳しく言えないが、この映画の一番の訴求力というのは競い合う6人のAV監督のそのパーソナルが徐々に露出してくるところである。画面に登場した時の胡散臭さは、すさまじいものがあったが(バクシーシ山下はどうみても普通のおじさん)、見終えた後の一人ひとりの誠実さ、紳士な行為に驚く。そしてひとりづつガッチリ握手をしたくなる、そんな気持ちにもさせてくれるほどである。

彼らは女性に対して、どこまでも優しい。AVに出てもらうだから優しいはねぇだろう、って思う人もいるかも知れないし、もちろん職業だから、ホストが女性に優しい、ってのも同意義かもしれないけど、そこには利己的で商業的ではない、彼らの誠実さが溢れでているのだ。

物理的にポイントゲットできる彼らにとって女性はポイントなのだけれども、それでも女神であり、男性は拝むように女性を抱き、多くの出演した素人女性は「ありがとう」微笑みながらその場を立ち去っていく。なにこの祝祭感。

既存のAVには”抜く”という行為がセットであるのであれば、やはりこれはAVではない。もちろん人間ドラマを引き立てる重要な要素ではあるけれども、SEXシーンはメインではなくあくまでも引き立て役なのだ。

そして一人ひとりがそれはもう、ひどい目にあう。おっさんのような容姿の女性が出てきたり、なぜ、そこまでするのか、、自分だったら、、と悲惨に思う瞬間は同時に爆笑を産み、そしてその行動が後に歓喜を産み、熱狂を産む。彼らはAV監督ではあるが、ある意味サラリーマンとして飯を食っている人間であり、アブノーマルがデフォルトな人達ではない。そんな彼らがここまで本気を出さなければいけない時があり、それがテレクラキャノンボールなのだろう。

競争メンバーのひとり、ビーバップみのるは劇中のある場面でこんなことを言う。


「ぼくらは人とは違うことをして、飯を食わせてもらっているんだから、やらなきゃ駄目なんだよ」

この言葉を聞いて最初に思い出したのが、内田樹氏のあるブログである。

『半分あきらめて生きる』
http://blog.tatsuru.com/2014/05/14_0818.php

私が問題にしているのは「真の才能」である。なぜ、私が「自己評価の下方修正」についての原稿をまず「真の才能とは何か?」という問いから始めたかというと、「真の才能」を一方の極に措定しておかないと、「才能」についての話は始まらないからである。というのは、私たちがふだん日常生活の中でうるさく論じ、その成功や失敗について気に病んでいるのは、はっきり言って「どうでもいい才能」のことだからである。
「富貴」をもたらし、「享楽主義」や「現世利益」とも相性がよいのは「どうでもいい才能」である。それは思想とも宗教とも関係がない。そんなものは「あっても、なくても、どうでもいい」と私は思う。 

この世のシステムはいずれ崩壊する。これは約束してもいい。いつ、どういうかたちで崩壊するのかはわからない。でも、必ず崩壊する。歴史を振り返る限り、これに例外はない。250年間続いた徳川幕府も崩壊したし、世界の五大国に列した大日本帝国も崩壊した。戦後日本の政体もいずれ崩壊する。それがいつ、どういうかたちで起きるのかは予測できないが。
私たちが「真の才能」を重んじるのは、それだけが「そういうとき」に備えているからである。「真の才能」だけが「そういうとき」に、どこに踏みとどまればいいのか、何にしがみつけばいいのか、どこに向かって走ればいいのか、それを指示できる。「真の才能」はつねに世界のありようを根源的なところからとらえる訓練をしてきたからだ。
問題は「すべてが崩れる」ことではない。すべてが崩れるように見えるカオス的状況においても、局所的には秩序が残ることである。「真の才能」はそれを感知できる。


テレクラキャノンボールには「真の才能」が溢れ出ているのではないか。

出演者達が公道をありえないスピードで駆け抜ける姿、パーキングエリアでカレーを流し込む姿、ナンパをし女性を口説き続ける姿、ベンチで肩を落とし姿、ハメ撮りをする姿、そして苦悩する姿、そんなどこに真の才能があるのか、と思うかも知れない。

ただ内田樹がここで言う、「どうでもいい才能」は垣間見えない。そして彼らは社会的には不適合なアウトローなのかもしれないが、世の中の見方のレイヤーがきっと違うのだ。


(こうやってみるとテラスハウスみたい)

少しネタバレだが、ある女性が登場した際に、テロップに”こちら側の人間”という言葉が表示される。これはカンパニー松尾が無意識ながらも、その自覚を持っている現れのように感じる。この映画の中での出演者は「費用対効果のよい生き方」を選ばず、不器用ながらもその”あるがままの自己”を受け入れている。

”半分あきらめて生きる”は、覚悟して生きることなのかもしれない。この作品のキャッチコピーでもある「ヤルか、ヤラないかの人生なら、俺はやる人生を生きる」にも通じるだろう。先日「ぽこ×たて」で一躍人気の俳優・沢井亮がLINEで未成年との淫行で捕まった際のインタビューを観て同じことを思った。炎上案件で漢を上げるとは…

未成年淫行で逮捕のAV男優がシャバでしQちゃんに懺悔! ヤリチンは治らないキュウ…

AVやアウトローな仕事という条件は、考慮すべきかもしれないけども、つまりは信じるものと覚悟の問題であろう。それはマッスル及びDDTからも同じことを感じる。覚悟を持って、表現として行う、そしてサバイブすることなのである。

なんにせよこの映画からはその覚悟と表現が伝わってくることは間違いない。劇場版は女性でも見れるような、カンパニー松尾の神編集らしいので先入観を取り除いてまずは観て欲しい。というか、俺も観る。





それにしても「性格よし子ちゃん」で日本のAVのハイコンテクストぶりは凄いなって、関心してたらこのキャノン砲ですよ。ちなみに前述したビーバップみのる監督の過去作品とかアート作品の文脈でもいけるんじゃない、ってぐらいの鬼畜っぷり。かつ、現在製作中の作品も、混沌としているな。。



ビーバップみのる監督作のAV「501」



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