2013年9月29日日曜日

【書評】筆蝕の構造―書くことの現象学




現代の言語学の多くは「音声言語(パロル)」と「文字言語(エクリチュール)」という言葉の媒体する記号の差に違いを置く。この差は記号によるのではなく、人間の営みにおける表出・表現行為にしか違いはないというのが本著の趣旨である。言葉には「話された言葉」と「書かれた言葉」しか存在せず、人間が意識を表出する手段と行動に焦点を当てると芸術の創造的営為は大きく「はなす」「かく」「つむ」の3つに分類される。

「はなす」=人間が身体をもちいて意識をはなす
 放す・離す…舞踏・舞踊・演劇スポーツ/話す…話芸・音楽

「かく」 = 道具を手にして対象をマイナスαに変形する
掻く…農耕・エッチング / 欠く…彫刻・版画 / 画く・描く…絵画 /書く…文学

「つむ・くむ」=対象をプラスαに変形する
積む…建築、陶芸 / 組む…造園・編物

この分類によると作家が万年筆を動かしている行為は、農耕民が鍬をふるう行為、さらには石器時代に石斧をふりかざす行為と等しいのである。文字の発明が語りの時代から書く時代へ転じたのではなく、「かく」という手段による意識の表出が現在に至るまで連綿と続いてきたのであり、「かく」ということ言うの一変種として「書く」が発生してきたのだ。

佐々木正人氏がアフォーダンス理論を語る際に、「サーフェイスの変形だけが人生」という概念に非常に類似性があるのではないか。化粧や料理はサーフェスにある本来の意味を残しながら、その意味を強調するというレイアウトの修正であれば、「書く」という行為もサーフェイスの変容と言える。では身体的な意識はどう加えられているのか。私達が日常で行うパソコンなどでキーボードを叩き、表示される文字とはどのように違うのか。

著者は「書く」行為は<触覚>と<痕跡>が統合された<筆蝕>であるとする。「話す」という行為は口調や全身を用いての表現に及ぶが、「書く」という行為は言葉以外の漏出的表出を基本的に許さないのだ。さらに語は章・節・句・語と構成されていると認識されているが、語をさらに微分すると偏と某、字画、起筆・送筆・終筆となりその先に筆蝕があり、その連続が「書かれた言葉」を生み出すのである。

1992年に書かれた本著は、現代の情報端末が取り巻く環境をどう見ているのか。
チャットは2chは、もはや話し言葉と同等で、Twitterのように「話し言葉」が進化している状況といえる。学校教育でもICT教育としてタイピングを教える現在において、「書かれた文章」を見極める術を私達は確実に失いつつあるのではないか。皮肉にもこの書評自体、構成こそノートで整理したものの、基本的にはパソコンで打ち込んでいる。

肉筆にある微妙なブレについてこう述べている。

”震えるのは下手で恥ずかしいからではない。人にみられているからでもない。世界の前に孤独に立ち、いままさに、単身で世界に傷をつけようとするその事の重大さに身を緊めているからだ。起筆し、書き始めたとき、人は自然の破壊者になり、他社の殺傷者となり、「書き手」となる。このときから、人は苦悩の世界に入り込む。”p156

本著で非常に残念だったのが、パソコンで打ち込まれた文章と、書かれた文章の違いの比較がなかったことだ。徹底的に主観に基づいて書かれていることなのである。個人的には電子書籍と本のような違いがタイピングと書く行為の違いがあると思う。それは書く行為というよりも、書かれたものがどのように閲覧されるか、という点にあるのでは。もはやパソコン以前の世界にもどることはできない。では、書くことの良点をいかに現在に復興させるかを考える価値はあるのではないか。って言ったままにしておく。

ちなみに、最近の著者は「縦に書け!――横書きが日本人を壊す」という本をだしており、現在もスタンスは全くブレてなかったことは嬉しくもあるのだが、もはや国粋主義的な雰囲気も感じ無くはなかったり…。まっ、そこも含めて愉しく読める本ではあります。



筆蝕の構造―書くことの現象学 (ちくま学芸文庫) 縦に書け!――横書きが日本人を壊す(祥伝社新書310) おろしや国酔夢譚 (文春文庫 い 2-1)
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