前回の投稿で長すぎる枕を経て、radlocalの体験記を自身のメモを兼ねて記載していく。
あらためてYCAMで行われた4日間のradlocalはどのようなものであったか。
Radlocalの特設サイトにこのように記載されている。
http://radlocal.ycam.jp/
デジタル時代の「地域×メディア」について、
可能性と課題を問う3日間の集中ワークショップ
インターネットやテクノロジーの急速な発展にともなって、私たちを取り巻く暮らしも加速度的に進化しています。日々革新されるメディアテクノロジーとともに地域のことを考えたとき、どのような創造性が生まれ得るのでしょうか?
今回の企画はYCAMやゲストの持つリファレンスから地域×メディアの可能性を探ること、それはテクノロジーの考察を広げ、深めるというより、むしろ地域に潜伏している”素材”もしくは”富”というのをどのようにして発見して、拡張させるかを考える機会なのだろう。
【 初日 】個人が持つ発展の可能性について
初日はYCAMから車で50分ほどかけたところにある阿東町の阿東文庫へフィールドワークをおこなった。フィールドワークといっても、何か調べるというよりは、阿東にいる人達の話を聞く機会である。
そもそもRADROCALのベースとなった、YCAMの”地域に潜るアジア”がまさに素材・富を拡張させたプロジェクトで、その始まりは阿東町に生きるRadな人々を発見し、拡張したことにあったそうだ。
阿東町にて知恵と技術の邂逅
企画段階でYCAMメンバー及びインドネシアのアーティスであるヴェンザ・クリストが阿東町を訪れた。そこでの邂逅が凄い。あるおじいさんが凄まじい勉強家、むしろ知の巨人と言えそうなぐらい物事に精通し、米についての研究を独自で行い、ひとりでアメリカに出向いては研究者とガンガン議論を行ったりする人物であったこと。そしてインドネシアでHONF Fob LabやHONF-Micronation/Macronation Projectを行っており、今ではインドネシアのロックスター的な人物であるヴェンザ・クリストが、自ら行っているアクティビティとおじいさんのアクティビティがシンクロし、話がドライブするダイナミズムこそ、「地域に潜るアジア」の発露であったそうだ。
さらにヨシミさんという別のおじいさんは阿東町にある廃校舎に本を集積して、その街の知の拠点として確立しようと暗躍し、行政には既成事実で認めさせるという、これぞラッドなアクティビティを示す。そこは、定期的に農業、政治、社会情勢について白熱した議論を交わしているというYAVAY場所なのである。(後日行われた懇談会で、ヨシミさんと話をしたが、最高だった。説教的な態度は皆無で、こちらと対話を重ね、その上で説得力のある話がどんどん広がる!刺激的!!)
眼から鱗なやんちゃなおじいさん達の話を伺った後は、地域おこし協力隊の方々によるイノシシの猟について学び、旨すぎる甘酒、おしるこ、イノシシ鍋を堪能する。
恐らく全体を通して、初日の阿東文庫でのフィールドワークは現時点において、スケールとしては小さいかもしれないが、「個人が持つ発展の可能性」としては最高であった。それゆえに、参加者も登壇者も全員参加できれば、、
【 2日目 】あの鐘を鳴らすのは俺
せんだいメディアテークの場合は、ネクストレベルの文化施設の可能性を桂さんがその名前とコンセプトに感じたからだそうだ。別の言い方をすると将来的に食っていける道があるかもしれない、もちろん純粋にその必要性も感じていることも含む。プロジェクトが進むに連れて金がペイできなくて離脱したメンバーも沢山いたそうだ(一昔前のプロレス業界みたいだ。)。結果的には桂さんは「自身の携わった成果として、そしてペイの回収のため、「せんだいメディアテークコンセプトブック」をつくる。そのタイミングまで含めて、と非常に示唆を得る内容であった。
箱物プロジェクトに関しての発言権は、建築家 > 役所 >「ユーザーのことを考える人」なのだが、「ユーザーのことを考える人」がどのぐらいプロジェクトに腰を据えているかでディテールが決まり、それは成否は変わるということ。実際に自身も過去のプロジェクトやCCC時代の仕事を振り返ってみても、たぶんそれは原理原則であろう。つまりはあの鐘を鳴らすのはあなたではなく、俺なのだと。
【ワークショップその1】 「日常にあるバリア」
もうひとつはプロジェクトとなった場合に、動機をどこまで自身に担保できるかを探ること。市民のため、ということを言いたくなるけど、結局は上記したように、自分がそれを行うことでお金にしろ、自己の欲求にしろペイできる可能性を推し量り、それと向き合う覚悟を感じさせるための機会だったのではないだろうか。
【3日目 】 テクノロジーが紡ぐ生態系の話
の齋藤精一さん。
齋藤さんは学生時代から建築を軸に動いていたけども、どうやら建築は自身が思っているよりも狭い世界であった(当時の話としてみれる)。その後アーティストとして活動していくも、アートの世界も想像以上に閉じた世界であった。作る人、観る人、批評する人、全部同じ穴のムジナ。そして何より食えない。そのため、生存戦略としてエンターテイメント・コマースの世界に道を広げた。ただ、その生存戦略以上の可能性があるという話だ。
それは人の心が動く空間やモノについての話だったりする。例えば、セナのCMで担当技術者が涙をながした。データは見せ方によって人を感動させることができる。
またHYPER NEBUTAの事例では、元々この案件がねぶた師の人からの要請であり、結果翌日の新聞で一面を飾ることになり、保守的な人達から文句的なものもあったが、でも、子供もおじいちゃんも面白がっていた。それ以降、LEDや照明についての議論が起こり、文化として守るものは大事だけど、新陳代謝がおきる可能性について。
そしてPerfumeで使用されたモーションキャプチャーデータは公開されており、それが大学での教材として使われている事例についてなど。
http://perfume-dev.github.io/
http://www.perfume-global.com/
commerce × ART × R&Dという生態系
齋藤さんはその発展の仕方をAds+ART+R&Dという言葉で表現していた。アートで技術や思想を構築する、それをエンターテイメントやコマースの分野で拡散する、さらにそれが次の探求、議論、学び、発展を呼び起こすというサイクル。この話はYCAMが目指し、実践しているメソッドとも近いものを感じる。それは2010年のEyeWriterプロジェクトから端を発している。
アトラクターは賞味期限ではない。
さらに齋藤さんは必要な要素として「アトラクター」の必要性を語っていた。これは例えばTSUTAYAがスタバを併設しているから足を運びたくなる要素のようなもの、と言っていたがあんまりいい例えではないかもしれない。というのも、そのコンテンツが持つ賞味期限のようなものと捉えてしまいそうなので。本当は消費と生産(広義での)の両方のサイクルでの持続のための訴求力のことだろう。消費の面からみれば、それは資本の論理で相対化が起きることで終わってしまう。まさにPerfumeの教材事例は「消費」と「生産」の両サイクルで良いアトラクターを持った事例だろう。
【ワークショップその2】 アトラクターのある仕組み・組織づくり
それにしても斎藤さんの語り口というのはなんとまあ、腰は低いけど耳を傾けてしまう、というような、素敵な語り口であることか。パパっぷりも素敵でした。
詰まるところ、愛についての話
話は多岐に渡る。例えばWIREDがテクノロジーを軸として、3つのマーケットを相手にしている話。読者と広告クライアントと情報のサプライヤー(写真を提供してくれる人、イラスト、載って欲しい人)だ。ちなみに直近の過去3号(コーヒー、ファッション、死)はまさにそれぞれの人達に向けて作られているらしい。
またボトムアップとトップダウンについては、どちらも過大に評価すべきでもなく、ただ近づける必要はあるという話。例えば、アメリカでビヨンセのレビューを探すと上級誌がこぞってレビューを載せている。ニューヨーク・タイムズ、ローリング・ストーンズなどなど。そこから個人のブログに落ちていくという、情報のグラデーションがある。日本の場合はレコード会社が書いた記事を上位が占め、なんならブログ等でも個人がコピペする。テレビとyahooニュースの中でぐるぐる回っている、という話など。
極端とも言えるのだが、さまざまと話を聞いていて感じるのは、若林さんは多様性を信じているけど、その過程で発生するプロの作法みたいものは絶対に疎かにしてはいけない、そして、作り手に対する敬意を払うことを忘れてはいけない、ということが通底していたのではないか。
また別の話で、この街はこれで食っていく!というのは危険、というか今の時代に合っていないと言う。つまり、一部の影響力で決めていくというよりも、街の中で多発的に自発性が誘発させるかということだ。
Bjork’s island(参照)http://amass.jp/17220/
その流れでアイスランドの音楽事情の話が興味深い。現在、BjorkやSigur Ros等アーティスの影響で、音楽を軸とした国の動きが始まっているらしい。ある種の誇りとして、そこに暮らす人達が盛り上げる状態が自然と発生しているとか。Bjorkが出てきた時に、それを面白がる人達、凄いヘンテコな才能が出てきた時に、それをスケールさせる人が必要ということだ。その話を聞いて、実際にクール・ジャパンとかも構図としては一緒にみえるんだけど、決定的に違う、それは本当に詰まるところ”愛”なんじゃなかろうか。それは日本の地域でも同じ構図だ。
最後に以前、WIREDで掲載したCANのダモ鈴木の話をされていた。
CANからマーズ・ヴォルタへ。ダモ鈴木の過去・現在と見果てぬフューチャー・デイズ
この記事が1000イイね!された時に一番驚いていた人達は音楽業界の人達なんだとか。「私たち何処見て仕事していたんでしょうね…」という話で。これは編集者としてカタルシスかもしれないが、前述した、凄いヘンテコな才能を面白がる人達の重要性の話にも繋がる。そして面白がる人達は、視野を広げたり、別のアングルから見ると、なんだかんだいるという話でもある。
たばこトークでイリイチの話となり、若林さんとしては、WIREDの誌面上でイリイチを改めて再構成しているという事を伺って、なるほど、という妙に納得してしまった。イリイチの言葉をRADLOCALの視点からみてもかなり面白いし、多くの示唆を得ることは間違いない。
余談だが、若林さんの話を聞いていると、CCC時代に出会った素敵な愛すべき大人達を思い出す。極端な言い回しだが、世間的には野ざらしなことに対しても、どこか偏狭的な愛というのか、エモさを多分に感じました。好きですね、こういう大人。
【 最終日 】 フラッシュバック会社員時代 お金は大事
字数がえげつなくなってきているが、もう少しだ。。
午前中の講演は『greenz.jp』副編集長、NPO法人グリーンズ理事の小野 裕之さん。実は同じ歳という事実に揺さぶられる。(ちなみに白鵬も同じ年。)
greenzの中では編集というよりは、「ほしい未来はつくる」というコンセプトを実現のために、WEBメディアでは扱いきれないビジネスを通じて、ミッションを達成しソーシャルデザインの生態系づくりを行っている御方である。
例えばgreenzの収益は広告よりも新規事業開発をやっている。YAMAHAと連動して、音楽でコミニティをつくったり、全国200箇所ぐらいでDIY発電カルチャーを広げるワークショップしたり、東京の真ん中に新しい「まち」をつくるため「リトルトーキョー」という取り組みをしたりと様々だ。
リトルトーキョー
どのようにプロジェクトを具現化、収益化していくかの思考プロセスを分類×ビジネスモデルとして話されていた。具体的には、WEB・場所・タブロイド・場・イベントを分類とし、それに広告・課金・物販・コンサル・マーケットプレスといったモデルを掛け合わせること。普段から事業をそういう目でウォッチしておられ、例えば、ほぼ日の場合はウェブ×物販、R不動産はウェブ×広告(小さいクライアント)、離島経済新聞はタブロイド×ユーザー課金、暮しの手帖は雑誌×ユーザー課金(8割定期購読)みたいな。
その辺りは、何と言うか、自身のCCC時代においてサービス企画をバリバリに行っていた時の思考回路がフラッシュバックするというか、iamasに来て削ぎ落とされたのか、削ぎ落ちていったものが濃縮して飛び込んで来るような、ありがたい体験だった。
小野さんの凄いのは、成長モデルのメソッドを模索しつつも、ライターさんとの関係性や、ライフワークを含む、富の再分配のような視点も併せて持っていて、これは次世代型のリクルート感とでも言うべきか。多分、今のgreenzの躍進は小野さんの存在が大きいのは間違いない。
そういう意味で、逆にこの2年間はこのタイプの人は周りにあまりいなかったなぁ、というのを改めて気づかされる。iamasにいたら、と想像すると、恐ろしいような愉快なような。エモさ100%みたいな人ばっかりなので。ともあれ、今の活動も継続させるために、忘却されていた思考回路を呼び覚ます必要性も、改めて感じさせてくれた。
【ワークショップ3回目】 収益モデルに付随する心の所作とは
この要素の中で一番重要なのはVALUE(VP)であろう。これがビジネス上の取り組みであれば収益という意味でのVALUEで問題ないが、今回のRADROCALの観点で見るとすれば、収益の土台であるけど、一見収益に結びつきそうにないVALUEを見たほうがいいような気もする。だから参考としてAmazonは多分まずくて、もっと多層的なレイヤーのフレームワークがありそうな気がする。
それはワークショップ後のFabLabKamakura,LLC 代表である渡辺 ゆうかさんの講演の中で、個人的に一番の転機と思えるのが朝ファブの話という事にも繋がる。来てもらう人達が、あまりに多く、何故か怒られ、憔悴していった半年間を経験し、その後にサービスではなく、やってもらえる意識を変えるために、毎週月曜日の9時から掃除をした人だけ利用できるようにした、という話だ。その後のKULUSKAの事例も、Fab×TraditionalとしてのFUJIMOCK FESもそれがあったから生まれて生きている。
朝ファブ
SWAT分析とかビジネスモデル・ジェネレーションは詰まるところ「選択と集中」を行うべき手法だ。それは事業投資であったり、収益としてのVALUE、つまり等価としてのVALUEには有効だけれども、その土台となる別のレイヤーを分析するには別の手法が必要なのではないだろうか。渡辺さんはそれに気づいているからこそ、朝ファブの取り組みを体系的に毎回記録して、分析できるようにしてるのではないか。
(参照元:http://www.patinunezagency.com/fab-lab-house/)
バルセロナのFabCity構想などは完全にこの多層なレイヤーをどこまで丁寧につくり上げるかで、それが既存の都市の構造とは異なる”発展”というものが見えてくるのではないか。
バルセロナのFabCity構想
とはいえ、同時にキャッシュもやっぱり大事であることは言葉の節々から伝わってくる。それは数々のFabの現状をみて3つの失敗モデル①助成金モデル(3年間) /②最初からビジネスモデルを進めると軌道しない/③時代が早すぎた(うまくコミニティが作れなかった)の話もそうだし、事業を維持していくための葛藤があったからこそ重みがある。
怒涛の4日間を経て
実は渡邊ゆうかさんの話は、以前に渡邊さんがiamasに来られた時に聞いた話が結構かぶる部分もあった。ただ、改めて伺う中で、以前は気付かなかったことの多さに自身でも驚いた。恐らく、1年の活動が大きいのだろうか。4日間全体通して言えるが、実践として動いていたことで、そこを軸として考えることができたのは有難かった。去年の段階でこのワークショップに参加していたのであれば、多くが仮想の出来事として通り過ぎていったような気もする。
また全体のワークショップを通して、思った以上にお金の話が出てきたことは良い意味で期待を裏切ってくれた。現在、ピケティの「21世紀の資本」が世界的に議論の材料となっている(高い!!そして分厚い!!)。地域について考える場合も、というか地域だからこそこの論争は必須なのだろう。富というのが、単純にお金的な意味ではなく、もっと何気ない特技だったり、廃墟だったり、関係性だったり、もっと多様にあり、暮らす人達が”愉しむ”過程においても、再分配は行われるんじゃないかと、今回のワークショップは、そんな考えを巡らせる本当に良い時間を過ごさせてもらった。まあ何が一番Radだったか、と言うと阿東町で聞いた「既成事実を作ったらええ」だったりしたのだが。(まかり間違えればテロリストやで!)
信じられない長さになってしまったが、宿泊させて頂いたMACが外と家の中が同じ気温だったこと等々くだらない話も書ききれない4日間で、YCAMの皆さま、ゲストの皆さま、参加されていたRadな皆さま共々、本当にいい刺激を頂きました。多分また会うでしょうし、いい形で報告できるように精進します。
野郎たちで食べる朝食@MAC