2013年10月13日放送の情熱大陸『リアル脱出ゲーム』の加藤隆生さんの回を観た。
放送を観て、愉しいのは愉しいけれども、ぶっちゃけ心躍るものではなかった。
体験していないモノにあーだこーだ言うのもどうかと思うのだが、理由はふたつある。
場所の再活用という点で、場所の再生には至っていない
例えば、今はなきマッスルに対して、何より素晴らしいと感じていたのは、プロレスを笑いの道具とも、ギミックとして使いつつも、最終的にど真ん中なプロレスを魅せることで、逆にプロレスの底の深さを魅せていたことだ。プロレス好きなヒトはハイコンテキストな筋で愉しめ、プロレスを全く観ていないヒトでも『マッスル』を観戦して、プロレスにはまるキッカケになったヒトは多い。
ヒトが乏しくなっている場所でイベントを行って、その場所を再活用し、そこが一時的に活性化することも素晴らしいのだが、それがなくなってしまったしまったのであれば、再びそこは寂れた場所となってしまう。
大学院の先生と話した時にも、同じようなことを言われた。僕らが街でアートやデザインで単発的に何かを行ったとしても、それを行うヒトがいなくなっては結局は無に戻る。そこにいるヒト達にそういう意識やイデオロギー的なモノを根付かせないと意味がないのだと。
もちろん、場所自体を変えてしまい常設する場合は例外だし、競馬場で行われた『リアル脱出ゲーム』で競馬にハマる人達がいるから一概には言えないけども。男女の出会いを求めるのであれば、街コンに行ったほうが手っ取り早い。街コンは素晴らしい。あれは誰もが幸せになれる。話がそれた。
『物語を体感させる』ことの不足感

結局は1つ目と同じことなのだが、その場所や登場人物にどこまで没入させることができるかということ。
映画に求心力をもたせるためには、どうすればよいか。それは主人公を窮地に立たすことだそうだ。結局、”謎”って言ってもなぞなぞなので、それを解くことしかなく、物語の中に身を置くということにはならない。
(こちらも結局、行けずじまいで言うのもなんだが)お化け屋敷プロデューサーの五味弘文さんが手がけるお化け屋敷のほうが、物語に没入させるという点では優れているのではないだろうか。それに男女の出会いもそういう境地のほうが、ストックホルム症候群のようなもので惹き寄せられあうのでは。
『のめりこませる技術 ─誰が物語を操るのか
この本にはこうした事例が他にも多く乗っているが、似たような経験をしたことがある。
『俺の屍を越えてゆけ 』というゲームだ。1999年にプレステで、2011年にPSPで販売された、簡単にいえば人間版ダービースタリオンみたいなゲームだ。約1000年前の日本の京都を舞台に繰り広げられるある一族と鬼の争いの物語で、鬼は一族が2年間しか生きられない呪いをかける。それを哀れにみた神様達が一族と合祀(≒ 交尾)して、新たな子が産まれる。その子はまた別の神様と合祀して、子を産んでいく。敵を倒すたびに得られる経験値によって、合祀できる神様のレベルも変わっていくため、子はどんどんと強くなるのだ。
(ここからは完全にゲームのネタバレなので、プレイするヒトは読み飛ばして!!)
ゲームを開始する前に一族の名前を自分の苗字にすることを強く推奨される。鬼を退治し、ゲームをクリアした際に、呪いが解け、そして1000年後…という風に今の自分が登場するのだ。ゲームをクリアするまでに子供は20人ぐらい産まれては死に、それぞれが妙に愛着をもったキャラになる。それを踏まえた上でのその瞬間なので、画面上の出来事が自分の身に降り落ちたような感覚になってしまった。あれは素晴らしい体験だった。(※なんと2014年夏に俺屍2が発売されるそう!歓喜!!)
ちなみにこのゲームを創った桝田省治氏の著書『ゲームデザイン脳 ―桝田省治の発想とワザ― (ThinkMap)
とはいえ、いっぺんは『リアル脱出ゲーム』に行かんと。
行った人達を満足させているだけで充分に素晴らしいと思うし、
行った後で改めてこの文章に対して、ごめんなさいと言うかもしれないし…。
体験にいかに物語を重ね合わせるかは、場所の再活用という点でもおもしろい。
大学院での研究するテーマにもなりそうなので、もう少し考察を重ねます。